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吉永マサユキ×森山大道「今だからできること」 / 第1回 写真家としての「鉱脈」

写真家は、無名時代をどのように乗り越え、どのように切り開いていったのか?resistのメイン講師・特別講師のお二人の話から、無名の私たちにとって、「今だからこそできる何か」を探る。
(構成:キム ソジョン / 聞き手:まつもとつばさ / 写真:穴田昌代)


写真をはじめたきっかけ

― 森山さんの場合、写真に出会った最初のきっかけというのは?

森山:僕の場合は、もともと写真には全然興味がなかった。むしろ、子供の頃から絵が好きで、仕事も最初はデザイン関係の見習いのようなことをしてて。昭和30年代初めの話。

吉永:デザインって具体的にはどんなことをされてたんですか?

森山:アメの袋描いたり…。

― アメの袋、ですか?

森山:「扇雀アメ」っていうのが、当時大阪にあって、その袋にスズメの絵を描くんだけど、それを全部手で描くんですよ。今ならパソコンでやっちゃうんだろうけど。デザインというより図案だね。で、当時僕が20歳前後だから、しまいにはそうやって毎日細かいデスクワークやっているのが嫌になってきちゃった。

吉永:そうでしょうねえ(笑)。

― そのころ、女性にフられたのが写真の道に入るきっかけだったと聞きましたが…(笑)。

森山:そういうわけでもないんだけど。直接的には、デザインの仕事の関係で、関西きっての写真作家、岩宮武二さんのスタジオに出入りするようになったんです。当時やっとデザインの世界でも、写真を積極的に使うようになってきて、それで岩宮さんのスタジオに撮影の依頼にいったときに初めて、写真家とか写真の世界に触れるわけ。で、「こんな世界があるんだ」と。とてもファッショナブルでスポーティで、かっこよく見えた。さっきもいったように当時の僕はデザインの仕事に少しうんざりしていたし、女の子にも逃げられ、親父は死んじゃうし、色々なことが重なって、自分の生きる環境を変えたかったんだよね、きっと。で、ばばーんと写真の世界に入っていったんだろうね。

吉永:岩宮さんの事務所って十三でしたよね?

森山:今は、十三に移ったけど、僕がいた頃はまだ心斎橋の橋のたもとにあった。それでライトを持ってロケについていくスタジオ助手から始めたんです。スタジオの大先輩に井上青龍さんていう、ドキュメンタリストがいて、僕を可愛がってくれたんですね。個人的に釜ヶ崎とかに撮影にいくときも一緒に行こうって声をかけてくれて。また僕も犬っころみたいに、あとをチョロチョロくっついて行ってたのよ。そんなとき井上さんがかっこよく見えたしさ、それからやっぱり、小型カメラで街をスナップしていく、そのスナップがとても魅力的だった。助手の仕事は面白かったけど、もともと岩宮先生がやってるコマーシャルの方は、写真としてあんまり興味がなかった。それよりも井上さんみたいに、街で写真を撮るとか、スナップをする面白さみたいなものが、とてもこう僕の体質にフィットしたんだよね。井上さんに出会った事で、その後の自分のカメラワークが決まっちゃったようなもので…。

― 井上青龍さんとの出会いが写真家としての原点になるんですね。

森山:そうね、うん、街好きだしね。で、その後も一人でスナップしたり。まあ、そんなことやってて。それでスタジオに置いてあるカメラ雑誌を見ると、東松照明さんとか細江英公さんとか奈良原一高さんとか、当時の若手のスター達の作品が毎月載っていて、それを見るとやっぱり刺激されるわけでね。やっぱこれは東京に出ないと、となって。まあ、そういうことがなくても東京にあこがれていたしね。


大阪から伊豆、伊豆から写真へ

― 大阪から東京を目指したというのは吉永さんも一緒ですよね。

吉永:まあ、僕の場合は「目指した」というのは、ちょっと違うんですけど、借金とかいろいろと事情があって大阪にいるのがイヤになったんですよね。それで東京というよりは、サーフィンをやるために、千葉の勝浦を目指した。でもお金が足りなくて、そこまで行けそうになかったんで、「じゃ、伊豆でいいや」と(笑)。

― それでそのまま伊豆に住んじゃったんですか(笑)?

吉永:そうそう。伊豆で1週間ぐらい遊んでいるうちに、やっぱりお金がなくなって。

森山:そりゃそうだ。

吉永:伊豆の職安で仕事みつけて働き始めて。伊豆って温泉街だから外人のダンサーとか多いんですよ。それでナンパしていろんな国の女と遊んでたら、気づいたら2年くらい経ってた(笑)。その頃、ヤクザともめた友達が僕の所に頼ってきて、結果的には相手のヤクザとケンカになってパクられちゃったんですね。保護観察処分か親元に帰るかで、あとにも先にも物心がついて親父と一緒に住んだのはそのときの一ヶ月だけだったんですが、さすがにこのときに僕もいろいろ将来の事とか考えましたけどね。。
森山:そこがターニングポイントだったんだ。

吉永:そうですね。それで伊豆で遊んでた外人の女の中に、イギリスの子がいて、僕が「日本初の外人マントル(※1)をつくって大もうけする!」とか野望を語ると、「そんなことではダメだ」ってすごく真剣にたしなめてくれるような子だったんです。彼女との出会いがまたターニングポイントになりましたね。(※1)マントル:マンショントルコ

森山:ああ、それでイギリスに…。

吉永:というかですね、僕が留置所に入る前に、彼女はイギリスに帰って連絡が取れなくなったんです。それで僕は彼女と結婚しようと思って、イギリス大使館に相談したら、前科者だから公務員になれと言われたんですよ。それだったら俺みたいな子どもの面倒が見られる児童福祉士になろうと思って、大阪帰ってから大検受けて、通信の大学に通って、佐川急便で働いて、借金返して、で、イギリスの女に会いにいったと。

森山:なるほど。

吉永:で、彼女には会えたけど、日本に連れて帰る甲斐性もないし、お袋を連れてイギリスにも行けないし、泣く泣く諦めたんです。それでヨーロッパを傷心旅行しているときに、ファッションデザイナーをやっている人に「私が行った事のない街の写真を撮ってきてほしい」と頼まれて、コペンハーゲンとかの写真を撮って現地で現像して送ったら、「カメラマン向いてるじゃないの」って言われて、そのときはまあ「そんなことはないだろう」と思ったんです。

森山:まあそれはね。

吉永:その一方でその頃、通信の大学の実習で、社会福祉の現場をみる機会があったんです。そうすると所詮はお役所仕事だから、助成金にしてもなかなかおりない、というような腹立だしい状況を目にするわけです。だったらこういう現実があるっていう事を、写真なら人に伝える事ができるんじゃないかって真剣に考えるようになったんですよ。横からの援護射撃っていうかね。それがきっかけで、そのまま今に至っているんです。

― 暴走族の少年たちの「現場」を撮ったんですね。

吉永:不良の子らを不良っぽく撮っているのは、たくさんあるんですけど、その子らを普通に撮っているのはあんまりないんですよ。でも、実際は、その子らも同じ子どもで、同じように泣いたり、悩んだりしているわけで、僕はそれをきちんと見せたいと思ってきたし、それをやっているうちに、自分でも運命やったんかなって感じましたね。

森山:それが吉永さんにとっての写真家としての「鉱脈」だったんだね。

吉永:そうですね。


横須賀という「鉱脈」

― 森山さんが「鉱脈」を見つけられたと感じられたのいつですか?

森山:僕がなんとなく、自分でこの辺かなと思ったのは、横須賀を撮りに始終行ってた時期だね。当時、横須賀はベトナム戦争で一番にぎやかな頃で、基地のいかがわしさやあざとさが凝縮されていて、面白い街だったんだよね。

― 当時の横須賀は、カメラを向けると怒鳴られると森山さんの著作で読んだんですが。

森山:うん。靴磨きの親父さんとか、地回りのキャバレーのぽん引きとかさ、そういう連中に、怒鳴られたり追っかけられたりしながら、路上撮影を身体で覚えていった。辛いけど面白いんだよね。マア、毎日のように通ったね。そこで、街や人を撮る事の、難しさとか辛さとか、逆に面白さとか、スナップワークのあれこれを覚えたのが横須賀だから。そして、そんなスタンスが、その後新宿の撮影とかに繋がっていった。すべてのルーツは横須賀だから。

― 横須賀を撮影しているときに「鉱脈」を見つけたんですね。

森山:そうなんだけど、その時はとにかく「カメラ毎日」に載せようと思ってやってたわけだよ。「カメラ毎日」は、その頃、篠山紀信や横須賀功光が世に出始めたときで、当時一番先鋭的で面白い写真雑誌でね。「カメラ毎日」には、山岸章二さんという有名な編集者がいて、とにかく山岸さんに見せて、俺は絶対に「カメラ毎日」に載せるぞと、それだけを心に決めて横須賀を撮ってた。それと、もう一つは、カメラワークの有り様としては、東松照明さんの占領写真のイメージがあって、それをトレースしていた部分もあったと思うよ。若かったからさ、生意気にもそれを超えてやると思い込んでたしね。だからやっぱり、鉱脈を見つけたと言うよりも、「カメラ毎日」に絶対に載せてやるという決意と、そのために撮ったということが、鉱脈にもつながっていったんだよね、きっと。

吉永:そうですね、そのときは、これが「鉱脈」だ、なんていうのはわかってはないですよね。結局自分がやりたいと思った事をやり続けてきただけでね。

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更新日:2007年6月1日