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石内都「いのちのプリント」(後編)


― 収蔵庫は作るのにどのくらいかかりましたか?作ったのはいつですか?

石内:2009年8月から1ヶ月ぐらい。群馬近美の展覧会終わって、戻ってくるのにあわせて作ったの。

私は基本的に作品を寄贈するのはやめようと思ってる。買っていただける、コレクションしていただけるものは、それに合わせて寄贈は良いけど。基本的には作品っていうのは美術館が欲しい物を買うもの、持つものであって。だから私は寄贈をしたくない。

予算がゼロだから、現実的に美術館はコレクションできない。だから作品が全部戻ってくる。作品が返ってくるからそれで考えたの。返ってくるのに合わせて大工さんと相談してね。

実はもともと収蔵庫は気にしてたの。収蔵庫を作るまでは日本間に普通に置いてあっただけ。畳の部屋にただ置いてあっただけ。
でも、カビが生えたりいろいろあって、自分で作品を持つことになるならちゃんとしたものを作らないといけないなって思っていた。「収蔵庫を借りようかな?」とか。いろいろ考えた時に、「そうか、日本間2つもいらないな」って。だけど母が父のために作った仏間だから、それを取り壊すのは胸が痛い感じがあった。

それがある日、全然関係ない人から「日本間2つもいらないじゃん」って言われて。年に2回ぐらい人が来て、客間として使うことがあったんだけど、「年に2回のために2つも日本間いらない」って。まったくその通りなので、だったらちゃんとしたもの作ろうって思ったらすごく気が楽になった。

作品が全部売れちゃえば良いけれど、そんなことないから。「ひろしま」が全部戻ってくるからちゃんとしようと。

― 全部で何点ぐらいあるんですか?

石内:「ひろしま」が40点あるから…100点ぐらいはあるんじゃない。

― まだまだ入りますか?

石内:どうかな…。
プリントって私にとって命みたいだから。ここで生み出して、プリントするだけじゃまずい。その後どうするか考えないと。だから収蔵庫はすごく嬉しい。普通はそこまで考えないみたいだけど。プリント、印画紙を良い状態で置いておきたい。だからさ、1から10まで自分でやると、その責任をどうやって取るかという意味においても、まぁ普通かな…(笑)。
ただ、今はカラーが多くなっちゃって。カラーに関しては、自分ではしてないけれど。だからプリンターとの戦いみたいな感じ。

― プリンターさんの上がりを見て?

石内:もう大変よ!!自分でやった方がまだラク。他人だからどうやって伝えていくか。まぁ、彼はずっとやってくれているから、そういうの分かってくれているけど。それだって私じゃないわけだから。だからカラープリントは諦める。

― 長年の付き合いの方なんですか?

石内:でも諦める事はいっぱいある。完璧ではない。自分でプリントしてないから。
諦めるって悪い言葉だけど、そうじゃなくて、それは他人と一緒にやっているという意味で彼を尊重する。私のことは分かっているけど、私がプリントしたらこうじゃない事は分かっているんだけど、それはお任せする。そういう気持ち持たないと、カラープリントとモノクロ大判プリントはね。

― ご自身でプリントは?

石内:したいよね。でもこんな大きいのはできない。

― 美術館に飾るレベルになると…。

石内:コミュニケーションだから、私が何を求めているか相手は分かっているけど。それでも私が「やっぱり違う」「申し訳ないけど違います」って言うしかない。つらいよね。向こうだってやりたくないよね。
でも、ヴェネチアビエンナーレでモノクロームの150センチ×100センチの作品を出したの。ここではできない、私ができるのは108センチ×80センチまでだから。
3回4回焼き直すの、けっこうつらいよね。でも、ヴェネチアビエンナーレは100万人来るんですよ。その人たちに対して私は納得いかないプリントを見せる事はできない。だから、もう一回やってくださいって、口説くしかないよね。
彼にとってはそんなに違いはないの。でも私にとってはすごい違うの。「なんとかここを」って。「ここをなんとか」って。戦いみたいだよね。
それはプリンターとこっち側のコミュニケーション。自分であれば納得できるよ、何だってどうだって。でも自分ができないからどうやって納得するかっていいことと、もう少し出来るんじゃないって。出来るのよ、言えば。
ただ向こうは仕事でやっているわけで、作品ていうかアートでやってるわけではない。その兼ね合いがね。それも含めて、共同。今まで共同作業あんまりやってなかったけど、共同作業は必要だなって。作品が大きくなってきて、自分で出来る範囲は限界。だから後は諦め。諦めが肝心。でも、レベルね。レベルを低くしちゃダメ。大きな高いレベルで諦め。こんな感じですね。

― これからある展示は?(2010年3月取材当時)

石内:5月にニューヨークで個展が。5月11日に行くんですけど、それは写真集をニューヨークで作っていて。初期3部作を1冊にしたいって。それであとビンテージを。横須賀とアパートのビンテージを展示するの。
6月は沖縄。7月がもう一冊写真集作っていて、それは「カメラ毎日」で連載していたもの。一階の押入れにあったやつね。だけど、発表した写真のポジはないの。その代りに未発表のカラー写真がいっぱい出てきた。80%未発表。時期は初期の3部作の直後ぐらい。
「TOKYO BAY CITY」じゃなくて「TOKYO BAY BLUES」。ちょっと良いかもしれない。何かなって思ったらたまたまこれがディズニーランドが出来た年。83年だから。湾岸が変化するそのちょっと前。その時に撮った写真。これは蒼穹舎で展覧会する。原さん(※)デザインで。なんかね、すごく古い。30年ぐらい前なんだけど私も忘れている写真なので妙に新鮮な感じがする。

2冊続けて2つ出るのがね…。今ちゃんとやっているから過去が甦ってくるっていうこと。続いてる感じかな。「ひろしま」の流れも含めて。決して過去ではない。
(※)原耕一:アートディレクター

― 今年はそんな感じで?何かまた新しいテーマとか?

石内:新しいのはない。広島をもう少し撮らないと。沖縄があってまた撮っているから。
実は新着遺品っていうのがあるの。不思議な言い方だなって思ったんだけど。
なんで2010年に新着遺品を撮りに行ったかって言うと、広島平和記念資料館に資料が入るでしょ。そうするとテレビ新聞マスコミに知らせる。その人たちがブラウス見て、「これ絶対に石内さんに」ってみんな異口同音にそう言ったらしい。
たまたま広島の資料館の学芸員に用事があって電話したら「石内さん、赤いチェックのブラウスが…」って言われたの。「これは絶対に石内さんが撮るものです」ってみんなが言うのよ。それが今回撮りに行ったポスターの赤いバラのボタンのブラウス。私はよく分からないけれど、情報が私にね。だからびっくりした。

― ポスターにボタンのを使おうと決めたのは石内さん?

石内:あれは町口(※)さん。美術館の予算が少なくて、正規のお金払えないから君の好きにって言ったの。
(※)町口覚:アートディレクター

― ポスターのイメージが目黒は青のイメージ。でも沖縄は、町口さんが赤を選んだっていうのは意図的ですよね?

石内:もちろん。今回は赤でいきたいって。町口さんとは、今回若い人とやりたいと思って。39歳だかの誕生日に行ったの、花とチョコレートを持ってね。お金払えないから、あなたの好きなようにやってくれって言ったの。3つぐらいデザインがあって、私がこれって言ったら僕もそうだったって一致しちゃった。それは良い出会い。

― 最後にresistの人や若い人にメッセージとかありますか?

石内:ない!勝手にして!若い人は自分で考えて自分で感じればいいんだから。私がずっとやってきたわけだから。先輩にメッセージもらって…なんてないわ。私は先生がいないし。自分でずっと自分のことは決めてきたから。そちらが私に質問があったり、興味があったら何でも答えるけど私からはないわ。

(完)

更新日:2011年2月15日