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吉永マサユキ×奈良美智「ムダ道」(後編)


嘘のないリアリティ

― もともとお二人が知り合われたきっかけというのは?

奈良:共通の友人がいて。

吉永:そう。それで奈良さんが俺の『族』の写真が結構好きみたいというのは、人から聞いたことはあったんですよね。それで、初めて会った時に、写真集持っているからサインをしてもらいたいといわれたのが、俺もすごいうれしくて。

奈良:持ってる『族』はもちろん豪華版!

― 最初聞いたときは、結構意外なつながりだなと思ったんですが。

吉永:いや、俺はね、奈良さんがスタークラブ(※)とかパンクとかそういうのが好きだって共通の知人を通じて聞いたりしてたから、暴走族の写真を好きらしいというのを聞いた時に、俺の中では意外ではなかったんだよね。きっと、結構とんがっているというか、自分が好きなようにやっている人が好きで、奈良さん自身もそうしたいと思っていろいろやっていて、そこにシンパシーを感じたりしてはるんやろな、と。 ※ザ・スタークラブ:1977年に結成された日本のパンク・ロックバンド。

奈良:なんか嘘のないものを撮れるからすごいなって思った。普通モデルってポーズをとるものだけど、モデルの暴走族が、カメラマンがモデルを撮っているのとは全然違って、嘘のないものが撮れてるって思った。集合写真とかも、多分どんなえらくて有名なカメラマンが撮るよりも嘘がなく撮れていて、そういうリアリティというのが、俺はすごい好きなのね。例えば音楽でも、その人が本当に自分の今のことを偽りなく歌っているのか、というのが俺はすごく気になる。そこを嘘でも、どんどんニセモノの曲を作れる人はいるわけで、吉永さんの場合は、嘘はなくて、本物だなと思った。それでその姿勢みたいなものがずっと続いているという確信を持ったのが、ゴスの展覧会(※)をみた時。社会の日のあたる場所にはいない所は似ているんだけど。 ゴス展:2007年12月より横浜美術館で開催されたグループ展。

吉永:そこは似ているけど、本人たちは全然違いますけどね。

― 吉永さんの中で、写真を撮る時の姿勢にこだわりはあるんですか?

吉永:写真を見た人が感じるリアリティや真実というのは、見た人が感じることで、俺自身はカメラを向けた時点で、カメラを向けた時の表情になってしまうんで、真実とは違うって思っているんです。だからそれをあえて変えようとはしないんです。変えようとすると、もっとおかしな方向へ崩れていくから、もうそのまま受け入れた方がより真実に近いんじゃないかと俺の中で思って撮っているような感じなんです。だから、良くもしないし、悪くもしない。こういう風にしてくれと被写体に要求したりすることもしない。洋服の見え方とかそういうのにしても、全く言わない。こっちの時だけ言って、こっちの時は言わないとか、そういうのはおかしいと思うから、もう何もしないという事で一切言わない。

― 洋服とかがきちんとなってなくても言わないんですか?

吉永:うん、それでいいの。例えば、よっぽど、女の子とかで、乳首が見えそうになっていたりとかしたら、言うよ。それ以外は言わない。それと同時に、そういう姿勢を貫く事は、写真を何のために撮っているのか、被写体のためなのか、掲載する雑誌社のためなのか、その雑誌を見る読者のためなのか、それとも業界の人らにかっこよく思われたいから撮っているのか、そういう葛藤もひっくるめて、全部捨てたいという気持ちもあるんです。

奈良:なるほど。

吉永:そういう葛藤っていつまでも付きまとって来るわけで、悩むのもしんどいから、いいも悪いも言葉で表現するのはあきらめてしまうんです。押せば写るくらいの感覚で。


人からどう見られるかなんか関係ない!

― 逆に言うと、吉永さんのようにあきらめてしまう方がカメラマンとしては怖いんじゃないでしょうか?編集者が求めているものを撮らなければ、もう仕事が来なくなってしまうんじゃないかとか。

吉永:うん、怖いと思うよ。だっていいものを作ろうと思っているんだから。でもどっちにしても、雑誌とかって、流行れば売れるし、流行らなくなったらさっと売れなくなっちゃうもんだから。だから俺の場合は、自分の展示とかを宣伝してくれるからありがたいと、そういう考え方なんだけど、奈良さんはどうですか?

奈良:俺ねえ、やっぱ人からどう見られるかどうかというのに、気づいてからすごく弱くなったんだよね。自分の絵が雑誌にバンと載っているのを見るのはすごい好きで、掲載されたら、おお!って思うし、載りたいとも思うんだけど、自分が見るその1冊を見たいだけだったの。でも雑誌っていろんな人がいろんな所でそれを見ていて、ある人はすごい好きだって言ったり、別の人は批判したりしているという事に気づいた瞬間に、なんかもう怖くなっちゃった。それで、自分がやりたいことは、雑誌に載る事ではなくて、生のものを作ることで、展覧会だったら見たくない人は来ないだろうから、雑誌に載せるのを断るようにしたらすごいラクになった。

吉永:そうかそうか。僕の場合は、例えば、暴走族の写真が載ったら、その被写体となった子の親が文句を言いにきたり、掲載する事によるメリットとデメリットというのが、すごく多いんです。だから、雑誌に載るというのは、僕の場合は、写真集や写真展のパブリシティという風に割り切って考えています。 それと、人からどう思われるかという部分で言うと、人がどう思おうとその人の勝手で、そんな事は別にどうでもいいと思っています。自分がやりたいのは、写真を撮って残していく事なだけなんで。まあ、写真業界なんて、評論する立場の人でも、純粋に写真がいい悪いではなくて、自分の利益の方ばかりに走っている人とか多いですからね。でも逆に言うと自分がそういう部分を別にどうでもいいやって思えるようになったのは、その人らのおかげだって思ったりしますけど。


賞がないことが勲章

奈良:賞とかもらったことある?

吉永:ないです。

奈良:ないよね?俺もないの。(笑)

吉永:ぼくはもう無冠の帝王でいってやる!みたいな気分でいます。

奈良:僕もあるときからやっぱりそれが誇りになってきてる。なぜなら誰も認めなかったのに、認められてるじゃん!とかって思って。

吉永:絵とかも賞あるんですか?

奈良:いっぱいあるよ。お金なかったときに、奨学金ほしくていくつか応募したんだけど、一回も取った事がないの。いつもいい所までいって落ちちゃう。で、それをもらっている人がその後どんなものを作っているか、どんだけ頑張っているか、そういうのを考えた時に、俺のほうがもっとやっているし、辞めた人もいっぱいいるなって。だから、俺、そんな賞もらわなくて逆によかったと思う。

吉永:賞とやり続けることって関係ないですもんね。

奈良:それと、さっき悔しくて見返してやるという話が出た時、自分は見返してやる!なんて思ったことないと思ってたけど、実はあったんだよね。自分が落ちた賞を取った人が名古屋で展覧会する時に、バイトで行って片付けとかやったの。後輩がちょうどその片付けのバイトを引き受けてて、たまたま名古屋にいてそこに泊まっていたから、一緒に行って。でもその時はもう俺のほうが有名になってて、片づけを手伝いながら、その時すごくいい気持ちだった。俺結構いじわるなところあるんだなってその時に思った。(笑)

吉永:あはは。人間らしくていいですよ。

奈良:賞をもらわない事って、後になればそれが勲章になるみたいな。賞をもらっていたらかっこ悪いなって思う。そういう意味で、美大とか行ったり、ドイツで学校行った事もちょっと勉強しすぎたかなと思う。そういう所なんか行かないでも今みたいになっていたら、一番かっこいいなあとかって単純に思うことがあるけど、とりあえず、賞をもらっていないのが自分ですごく好き。

吉永:僕も、賞とか全然気にしてないですよ。そんなことよりか、僕はどれだけ続けていけるかが大事だから。それで、なんか気がついたときに、この人こんなにいろんな仕事やってきたんだなあって、そういう感じでいいなと思っていますね。まあ、賞をもらう事で励みになってその人がやり続ける事ができればそれはそれでいいだろうし。

奈良:賞をもらっていたらどうなっていただろうかと思うと、全然違う自分になっていたのかなと思うときがある。それはすごく悪い意味で。

吉永:ほめて育てられた子っていうのは、叩かれたらすぐにあかんようになるし。賞というのはそういう部分もあるなあと思うんです。


どんだけムダな事をしてきたかが大事

吉永:それと、今の若い人たちって、コンビニがあって、我慢せんでも何でも買えるわけですよね。僕らが若い時って、例えばヒロタのシュークリームが食いたいと思ったら、次の日まで待って喜びとともに手に入れてたけど、今の人たちは、ヒロタのシュークリームが食いたいと思っているのに、我慢できないからコンビニで他のどうでもいいシュークリームを買って満足しちゃう。そういう感じにハードルがすごく低くなってしまっている。カメラとかも、たくさんある新しい機能に満足してしまって、そこから疑問を持たないんですよね。僕らはやっぱり機械だから壊れるもんだし、自分の思い通りにならないものだと、はなからそう思っている。フィルムを使ってお金をたくさんかけて、それでも思い通りに撮れなくて、という事の積み重ねが、やっぱり悔しい思いにつながっていって大きな原動力になったりするわけなんですよね。でも、そこのところが若い人らって全然違ってて、ハードルが低いもんで、悔しい思いをあまりしないし、すぐにやめてしまえる。

奈良:今の美大を出た人とかでも、簡単に辞めてしまう人が多いんですよね。

吉永:それで、さっきの鮎川誠さんの話にもあったけど、写真集を作るにしても、1冊分の写真だけを持ってきて、これで写真集作れますよね、と言って来たりする。作れるかバカヤロウって思うわけですよ。俺らはその10倍は撮ってる。それは、編集者やデザイナーがいいと思って、さらに僕もいいと思う写真を集めてようやく1冊が出来上がるものだから、自分がいいと思っている写真だけで組めるわけがないんですよ。それを、そんなムダなことしたくないって、本当にそういう風に思っている子とかが多いんです。でもその「ムダ」が重要なわけじゃないですか。ムダなことが、こういう所にこんな面白いものがあるのかとか、そういう自分が知らない事を教えてくれて、自分の幅を広げてくれる。

奈良:そうだよね。子どもの頃って学校から家に帰る道順というのが、いつも大体同じ道順なんだけど、それでも時々あっち行ってみたりこっち行ってみたりする。それって、例えばムダなんだけど、1ヶ月ぶりに、いつもの道に戻ってみたら、その一ヶ月の間に変化があったりして、そういうのが感じられるか感じられないか。そういうのが感じられる感覚を身につけたら、普段歩いている道でも毎日変化が感じられるようになって、同じ道じゃなくなっちゃう。

吉永:そうそう。ムダというのは本当にいろんなことを気づかせてくれるのに、何でわからないのかなあって思う。

奈良:そういうムダみたいに見えることが実はムダじゃない。

吉永:すでに知っている道というのは、最短だったり居心地よかったりするわけだけど、ムダじゃない道とは、自分の想定の範囲の事しか気づかせてもらえないということですもんね。若い人らってやっぱり合理的な所がある。

奈良:そうだよね。なんでも最短距離に慣れているというか。例えばカメラマンになりたいとか絵描きになりたいとかという場合に、最短距離って多分あると思うんだよね。最初からそういうものになろうと思っていたら、ショートカットできっとなれる。でも、僕や吉永さんは、最初からそういうものになろうとしていなかったから、必然的に最短距離が取れなくて、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、いつの間にかこうなってた。でも実は、どんだけムダな事をしてきたか、がすごい大事なんだよね。

吉永:自分自身を作り出していくのって、本当はムダが作り出していくんですよね。(完)

更新日:2008年10月6日